心で仕事をして、意味の世界で戦う

目次

はじめに

この記事を読む前提として、私が論理的思考よりも感覚所与の方が大事なのではないか?、と近頃考えていることをお伝えしておきたい。

もちろん、「そんなわけねぇーだろ、カスが。」と思われる方も大勢いると思います。
別にそれはそれで人の価値観だと思うし、なんら私からしたら普通のことで、もはやそう言ってる人が正しいとも思うので「バカだなぁー」と思わず眺めていただければと思います。

この記事を書くきっかけ

なぜこの記事を急に書こうと思ったかというと、
ここ3年、おそらく2017年4月くらいから、心の中で思っていたことについて
「そうだったのか」となったので、それを忘れないために書こうと思った。

※※ 注
2017年4月とは私が東証マザーズ(現在は東証一部)のITコンサルティング会社に転職をした頃だ。
ロジカルな思考がもっとも大切だと考えられ、全てのビジネスは合理的に、極めて効率的に進んでいくことが望ましいという考えが大前提としてあった

なぜ、「そうだったのか」っと思ったかというと、
最近、近しい人たちと飲むことがあり、私の開発中プロダクトについて話す機会があった。

その場では私が思い描くプロダクトの姿、プロダクトへの想いについて会話した。
正直全く共感を得られていないどころか?「なにそれ?」的な感じになった。
僕は少し大人げもなく、想いを伝えたいので語気が熱くなってしまった。

詳しくは知らないが、当然彼は優秀だと思うし、論理的思考や生産的な意識を常に持っているのだと思う。
また、ターゲッティングやセグメンテーションなどなど、ハウツーについてロジカルに生きており私のような考え方は理解に苦しむのであろうと思う。

このことがあり、これを契機に一度なぜこのようになるのか考えてみたいと思い、ちゃんと考えてみた。

無意味なものは許されない

さて、近頃ですがありがたいことに新規事業や、新たな組織の挑戦について関われせていただくことが多くなった。しかし、そのどのプロジェクトでも、自分の作りたいものを説明すると論理的・合理的な考えに屈してしまうと感じることが多くなった。

データドリブンに戦略を練り、プロダクトを作り、マーケティングを行い、、、etc
あらゆるビジネスプロセスは他人に説明できる合理的なものでないと許されなくなっていると感じる。

無意味なものの存在は許されない
養老孟司. 遺言。(新潮新書

養老孟司さんの遺言の中でこのような1フレーズがあったことを思い出した。
最初に読んだ時にも強烈な印象を受けたが、考えていた時にふと思い出したので本を再度、読み返した。

その本の中で養老さんがこのように書いていた。

感覚所与を意味のあるものに限定し、いわば最小限にして、世界を意味で満たす。それがヒトの世界、文明世界、都市社会である

中略

それに慣れ切った人たちには、やがて意味のないものの存在を許さない、というやはり暗黙の思いが生じてくる。
養老孟司. 遺言。(新潮新書

まさにこれのことだと思った。
少しでも合理的でないことが存在すると、許せなくなっていて目的達成のための手段がコンパクトでリターンの大きいものでないとダメになっている。

僕はそんな世の中と風潮がとてもつまらないと感じている。
私は組織という合理性の塊のような集団の中にいては真に自分のやりたいことはできないと考え私は自身の会社を作っている

この記事ではプロダクトの中身について書くつもりはないが、
その場では僕のサービスではあらゆる合理性を排除して、熱さ、全力さ、アホさ、クレイジーさ、大好きだという気持ちが何よりも重要でこのサービスを作る意味であり、それを壊してしまうくらいならやりたくないということを言った。

また、やり方に関してもミニマムなやり方があるではないかと言われた、
僕からすれば、たったそれだけのためにここまでやることに意味があるし、なんだったら私はあらゆる贅沢を捨てて、借金してまでそれを行っている。

客観的に見ればもの凄いバカでしょね。笑

論理的思考が崇拝され全てにおいて優先されるものであれば、
「私のやり方は確実に意味の無いものとして排除される」だろう。

ハートドリブンに行こう

仲間から深夜にslackでこの記事がシャアされてきた。

logmi.jp

日本企業はマーケティングの奴隷になっている
山口周さん

これがまさに私の思っていることだと思った。
また、サービスの着想段階でも絶対に手段に左右されたらサービスの意味がないだろうと思っていた。

手段に支配されるわけにはいかない

ただただ、最高だと思える自分の考えたサービスを作りたい。
戦略なんて二の次だし、マーケティングや手段に支配された開発なんて死ぬほど退屈でどうでもいいものだ。
当然作ったらやる、でも作る際にマーケティングの手段がどうだから、サービスの機能やサービスの内容はこうだ、、、なんていうやり方は絶対にしない。そんなことなら一生会社員でいい。

私の作りたいもの=他人からしたら意味の無いもの

かもしれない、というのは養老さんの言葉を借りると、
意味とは他人と共有できる「同じ」という概念であるからして、私の作りたいものは、あらゆる他人の意味にはならないし、説明できうるものでも無い。

おそらくサービスが出てからそれは他人に共有できるものとして伝達可能になると思う。

とにかく、手段から考えるということは全くする必要がないし、
無機質な内容ならやらない方が良いと考えた自分の想いは間違ってないと思えた。

愛してるに近い

私は家族が大切であり、香川県が大好きであり、うどんをたくさん食べたいし、可愛い女の子も好きだ。
(なんや急にきしょいなとか思わないで。)
これらを論理的に説明することはできないし、これからもしないだろうと思う。
でも強引に説明するとしたら「愛しているから」だと思う。

愛していないのなら、
お金や、ファッションのためなら
東京でずっといたらよかったしそれなりに給料だって機会だってあったかもしれないと思う。

心で仕事をして、意味を作る

結論、何を言いたいかというと、手段やロジックの話をする前に、まず大前提として、心で仕事をすることが重要であると今の時代だからこそ思っている。

なんでも情報が得られる時代に、機能的なものだけでは価値がつけづらいこの時代に必要なこと。

僕の思う心は、ファッショントレンドのような一過性のものではなくて本質に近いもの、
いうならば歴史や理念を作ることであり、決してそれは、ターゲットや特定の層に振り回されることのない
どっしりとしたものである。

これらが私からすると意味であり、やりがいであり、壊したくないものである。
そういうものには知らない間にファンができて、ついてくる人がいるはずだと信じている。

心で仕事をして、意味の世界で戦う。

これが私の令和の仕事のスタイルなんです。

あとがき

ここまで読んでくださっている方、最後まで読んでくださってありがとうございます。
このブログも書き始めて1年を迎えました。

内容はともあれ、アウトプットしようと思ったことはここにちょっとだけ書いてきました。
よくコミュ障とか言われるのですが、ブログだと言われないですし、そういう意味で心理的安全性を保ちながら思ったことを書けるので割とブログ気に入っています。

人にコミュ障だとか、最近だと「マウント」とったとか、普通に会話しているだけでお作法違反みたいに認定されることが多い時代なので、会話って本当に難しいなって思います。
(なんなら気しなくていい人としか会話したくないとまで思っていますし、会話の途中でそういうことをいう奴の方がコミュ障じゃないかと思うが。。優劣なんてくだらんことを考えて勝手に劣等感はやめて。)

これからは、自身でこれから経験していくことを、可能な範囲で発信して、誰かに共感していただけたら嬉しいなって思います。

これからもぼちぼち書いていきますので、目にしていただければ幸いです。

合田圭佑

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